日光東照宮


1616年、家康が74歳の時に駿府城で亡くなりました。
健康にも気を使い、生薬にも詳しかったので長生きができたと言われていますが、亡くなった原因は胃ガンだと考えられています。
亡くなる前に遺言として1周忌が過ぎたら日光に祀ることを言いのこしました。
久能山の東照宮に遺体が納められ、1617年に日光東照宮を創建し、遺体が移され納められました。
その後、日光東照宮を徳川家光が改築を行い、現在の建築物になりました。  


2009年06月20日 Posted by いえ at 17:58Comments(1)日光東照宮

征夷大将軍


1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府が始まりました。
この後、江戸幕府は260年もの間続いていきました。
1615年の大坂夏の陣では、豊臣秀頼のいる大坂城を攻めて豊臣家を滅ぼしました。
この年には武家諸法度をつくりますが、これは大名が幕府の仕組みを壊さないために考えられたものでした。
この大名には、親藩大名、譜代大名、外様大名の3つに分けられていました。
そして、他にも天皇や公家に禁中並公家諸法度をつくり、寺院や神社に寺院法度、僧には諸宗寺院法度をつくり、勝手なことを出来なくしました。  


2009年06月20日 Posted by いえ at 17:56Comments(0)征夷大将軍

貿易とキリスト教


1612年、家康はキリスト教はキリシタンを増やし、日本を混乱させると思っていました。
そして、キリスト教の信者を増やさないためにキリスト教を禁じました。
しかし、外国との貿易は積極的に行っていました。
日本からの貿易船が海賊に間違われないように海外渡航許可証も出していました。
許可証を朱印状、朱印状を持った船を朱印船と呼んでいました。  


2009年06月20日 Posted by いえ at 17:55Comments(0)貿易

関ヶ原の戦い

1600年に関ヶ原の戦いがおきました。
多くの人が参戦し、家康側を東軍、石田三成側を西軍と呼びました。
戦いが開始されてから決着がつくまでには半日しかかからず、東軍が勝利しました。
敗戦した石田三成は処刑され、家康に味方した大名たちには領地を分け与えて江戸幕府への基礎をつくっていきました。
  


2009年06月20日 Posted by いえ at 17:53Comments(0)

家康と信長

1542年に三河(愛知県)の松平家の長男として家康は誕生しました。
幼名は竹千代、6歳の時に織田家の人質となり、のちに今川家の人質になり長い人質としての生活が続き、1560年に今川元義が亡くなるまで続きました。
家康は、織田家に人質となった時に初めて信長と出会い、その後1562年に信長とお互いに助け合おうと同盟を結びました。
そして、長篠の戦いで武田信玄の息子だった勝頼との戦いに家康は信長に応援を頼み、勝つことができました。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、信長の次男である信雄とも同盟を結びました。
  


2009年06月20日 Posted by いえ at 17:49Comments(0)織田信長